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   武士道 


いまさらだが、武士道(新渡戸稲造著)を読んだ。 これは「武士道」というものを世界に広めた名著と言われているが、なるほど、確かに名著だ。 何気なく、空気のようにある私達日本人の精神性、これは決して日本国内をいくら見ても全く見えてこない。 「武士道」は世界の人に日本の武士道を紹介するために書かれた。 世界に日本を紹介すると同時に、この本は世界と比べることによって日本人の特有性、考え方、良心のあり方、そんなものの中に脈々と「武士道」が伝えられ、生きていることを逆に照らしてくれている。 日本人の精神構造を客観的に外から見ることで、日本人が日本人たる所以が抉り出され、日本人であることにひたすら感謝の意が自然に芽生えてくる。 まあ確実に僕は農民の子孫なわけだが。 蛇足だが、ここで挙げられている武士道(名誉の切腹とか忠の心は何よりも大切とか)は確実に江戸時代の武士道だろうな。戦国時代の武士道だったら裏切りは完全に裏切られる方に責任がある卑怯、せこいは所詮は敗者の戯言約束とはだまし討ちまでの準備期間のこと、というような徹底的なリアリズム武士道だったろうから
 ある時私は、ベルギーの法学者に「日本には宗教教育がない」と話したところ、「宗教なしで、どうやって道徳教育をするのか」と驚かれた。思い返すと、自分に善悪の観念を吹き込んだのは武士道であることに気がついた。
らしい。この文章を読んで、正直、僕は「は?宗教と道徳とどう関係があるわけ?ましてや武士道とどう関連が?封建社会の既得権益層が自らの立場を正当化するためのプロパガンダ?」と思った。思ったんだよ。不覚にも。 読み進めていくうちに、穿った考えがひたすら破れていってスルスルと上の文章が心の中に沁みていくまでにそんなに時間はかからなかったけど。 例えば、武士道の中で重要な概念に、義理というものがある。 「義理」という概念は外国語に無いらしいのだが、思いっきり簡単に言ってしまうと、 「親切を受けた相手には受けた親切以上の施しをしなければいけない」義務だ。 我々は、「」内のことを当たり前だと思っている。 当たり前過ぎて気にも留めないのだが、よく考えてみると、「」内のことは何の根拠もない。 別に親切を受けようが受けまいが自分が親切をすることと何の関係もないし、自分が親切をしてやって他人がうれしがることと自分がうれしいことは本来何の相関も無いはずである。 しかし、「」内のことが前提となっている世界と前提となっていない世界を比べると、圧倒的に前者の方が皆にとって住みやすい世界であろうことが予想される。 この世の中は決してゼロサムゲームではない。 「」内のことが前提になっていれば人はたやすく他人に優しくするし、人から優しくされれば自分もその人に恩返しをしなければいけない義務が生じる。 そうやって人と人との係わり合いがスムーズに、暖かくなっていくことは間違いない。 とはいえ「」内のことを強制的に人々の前提とするのは難しいことだ。 しかし、武士道では義理という言葉一つでそれを可能にした。 武士道が道徳を構成するってのはそういうことだ。
 もう一つ。武士道において、「恥」は死よりも悪いものとされる。「恥」とは卑怯なまねをしたり、自分の怠惰によって仕事に不都合を生じたり、不忠を働いたりすることだ。 冷静に考えれば、どんなに恥ずかしかろうが生きていた方がありがたいに決まっているのだが、あえて「恥は死より忌むべきもの」と思い込む。 周囲も全員思い込む。すると恥を回避すれば周囲が認めてくれる。認めてくれればうれしい。 「恥は死より忌むべきもの」というものも何の根拠もない。 しかし、何の根拠も無いものも周りが全員信じていれば、善悪の感情もできていない子供のうちから刷り込んでおけば、根拠もくそも無く思い込んでくれる。 そういったカラクリによって、武士は武士に卑怯なことをしたり怠惰で人に迷惑をかけたり人のものを盗んだりさせなくすることに成功した。
 翻ってみると、僕も物を盗もうとすると、何か大きなものが僕自身にブレーキをかけてくる。 うまく言い表せないんだけど、物を盗もうとした瞬間に見えない空気でできた手みたいなものが心臓を押さえつけて動けないようにする。 (同じような体験をした人はいいたいことがなんとなく分かるだろうけど分かんない人には一生わかんないだろう) それは何故かといえば、「世間様に顔向けできない」からだろう。 日本では世間様が一番偉い。 世間様に顔向けできないことは、絶対にやってはいけない。 少なくても僕の中では。 僕の中で、「良心」というなんだかよく分からないものを形成しているのは「世間様」なんだ。 日本以外では、多分「世間様」はいない。 韓国でも中国でも北朝鮮でもインドでもアメリカでもフランスイラクでも「世間様」はいない。 そう思ったとき、「宗教が良心をつくる」ということが何となく理解できた。 日本では 世間様や、 食べ物を粗末にしたときに出るもったいないお化けや、 嘘をつくと舌を切ってしまう閻魔様や、 人を陥れるとバチを当てる神様や、 正しいことをすると天国に連れて行ってくれる仏様や、 リリアンを見ているマリア様や、(そこ、ニヤニヤしない!) そういったものを全て管轄しているのが、キリスト教のGodとかイスラム教のアラーなんだ。 だからキリスト教徒は人の弱みに付け込もうとすると、Godに見えない力で押しとどめられるんだ。 おそらく。 「何の宗教も信じていない人間は馬鹿にされる」という言葉の意味が分かった気がする。 宗教を信じていない人間は世間様がいない空間では人を悪く言ったり迷惑をかけたり物を盗んだり殺したりすることにブレーキがかかることが無いんだ。
 そう思うと、例えば「ローマ帝国の皇帝は民衆を支配するためにキリスト教を広めた」って初めは何か悪い意味で言っているのかと思った(皇帝が自分の趣味を民衆に押し付けたのか?くらいに思ってた)けど、違うんだな。 人がお互いに迷惑をかけあったりだましあったりする国より、人が助け合ったり、微笑みあったりする国の方が国家権力のほうも統治しやすいだろう。 そう気づいてから、マジで僕の中の昔の支配者に対する尊敬の意がうなぎのぼりした。
 日本ではなぜ「宗教」のイメージが悪いのか。それは日本にある「宗教」の大半がカルト宗教だからだ。 私達が良心を持っているのは、皆が住みやすいような心を持つように宗教でコントロールされたからだ。 ということは、その宗教の心のコントロールを一歩はずせば周りに迷惑をかけることを是とするような良心を作ることができる。 そういうものを作り出す宗教をカルト宗教という。 なぜ日本では宗教といえばカルト宗教ばかりなのか。 それは、日本人のなかで最も尊ぶべき存在である「世間様」より偉い神様を信仰してしまうと世間と調和が取れなくなるからだろう。

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